H25会報誌インタビュー 野村萬斎さん

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2019.05.23

H25会報誌インタビュー 野村萬斎さん

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本記事は、身曾岐神社崇敬奉賛会の会報誌、平成25年版からの転載です。

◆インタビュー
野村萬斎さん

平成二十四年の夏、例大祭宵宮神事「八ヶ岳薪能」で、『柑子』を奉っていただいた野村萬斎師にご登場願いました。昨秋は、七年ぶりの主演作、映画『のぼうの城』が公開上映されています。

身曾岐神社との出会いはいつ頃でしたか。

シテ方に薪能への出演をお声掛け頂いたのがきっかけです。観世清和さんのときに伺ったのが最初だったように思います。父はもっと前に伺っているかもしれませんが、私は三回ぐらいでしょう。

その時はどのような印象でしたか。

身曾岐神社に水に囲まれた能舞台があるということは聞いておりました。実際に伺ってみて、水と、周りと調和したロケーションに、大変驚きました。こんなに素敵な能楽堂があるのかと、そんな風に思いました。

同じように水に囲まれているのでも、厳島神社の場合は海ですので、より自然の雄大さとその厳しさを感じます。対して身曾岐神社は、水を介してソフトな感じがあります。舞っても演じても非常に優しいですね。水があると、声がよく通ります。生でも良く聞こえていると感じます。

能や狂言は日本の精神伝統文化を担うものですが、萬斎さんが世の中に伝えようとしていること、また、後世の人に伝えていかなくてはいけないこととは何でしょうか。

人間は皆、かっこよくは生きていないわけです。失敗をしたり、ちょっとズルけてみたり。人間が生きる姿を滑稽に演じるということではなく、人間存在そのものが滑稽であると捉える目線が狂言にはあります。人間を笑い飛ばすというか。

神社も、劇場や能楽堂も、生きている人間が行くところです。生きているという実感をすることがかなり重要ではないかと思っています。私たちは、生きている人間として舞台に出て行って何かをするわけですが、演劇を観るということは、古今東西変わらず、鏡に向かいに来るということでもあると思うのです。生きている人間が演じることが、観ている人間にとってはある種、鏡になるというのが、狂言の精神です。

「この辺りの者でござる」という自己紹介の決まりの言葉が狂言にはあります。身曾岐神社の能楽殿でやれば、身曾岐神社の能楽殿の辺りの者。それはつまり、今いらした、舞台を見ている貴方自身ですよ、ということになります。鏡は神社にも必ずあります。シェイクスピアのハムレットという有名な戯曲の中に、「舞台は自然を映す鏡である」という言葉があります。舞台は、「有りのままの今の状態=ネイチャー(自然)」を映す鏡である、と言っているのです。ネイチャーは、日本的に言うと「森羅万象」と言ってもよいでしょう。世の中を映す鏡ということです。自分や世界を客観視するために鏡を使う精神構造は、万国共通のようです。その点からも、芸能は神社仏閣と非常につながりがあるように感じています。

ということは、さらに深く見ていくと、そこに自分の人生が映し出され、何かを学んでいくひとつの機会であるということですね。

そうですね。そう在りたいなと思います。狂言では、いくら天才的な役者でも、若いうちに、人生を見せられるような深い演技をすることは、なかなかできないわけです。やはり、ある程度年齢を重ねていくことで深い演技ができるようになるし、役者としても円熟して行きます。

ご覧になる方も、年齢によって見方は変わるはずです。若い方には、若い方なりの感じ方がある。でも、同じ曲を何十年後かに観ると感じ方が変わる。それは、その時々の自分の状態が、まさしく鏡を見るがごとくに映っているという構造です。

一方で、私たち演者は「見せる」。見せるということは、役者としてのエネルギーを皆さんに放出することです。「三番叟」のように神様になり変わって、依り代となってそういうエネルギーを出す。出すばかりではなくて、吸引力も。お能はどちらかと言うと死者の視点から生を描き吸引力が強いですが、そのような双方向のコミュニケーションなのでしょう。

どのような点に留意して、日々の鍛錬をされているのですか。

場数も必要だと思います。能狂言でも場数の多い人の方がうまいと思います。場数が多ければいいということでもないのですが、人心なり、その場の空気を読む、ということは、場数によって鍛えることができる点だと思います。私たちの世界では、「四十、五十は洟垂れ小僧」と言います。予定されたことをただ型通りに美しく見せるばかりではなくて、そこに人生の深さが見えてくるというと、やはり還暦過ぎてからでしょうか。

私はどちらかというと保守派です。我々の世界に、革新、ということは在り得ません。基本的に守らなければいけないことは絶対に守らなければいけません。ただ、だからこそ、発信性を持っていないとなかなか今の時代はつらいです。発信する時に、我々の持っている感性をわかりやすい形でお見せすることが本来であって、本質を曲げてしまったら、我々の存在意義は無くなると思っています。

神社の崇敬の方々や御参拝の方々に

神棚や仏壇に手を合わせるということも、昔は日常としてあったのに、段々なくなっていますが、人間より大きなものの存在を確かめるという感覚が必要なのではないかと思っています。身を正したり、清めたり、一種、畏れるという感覚。自分を振り返り、人間としての思い上がりを正すことも必要でしょう。

情報が多すぎて、何が正しいのかも分からないときに、自分を映し出すことで安心できる、安定できる場を持っている方はすばらしいと思います。そういう場として、自然の中に在るこの身曾岐神社を、皆さんは味わっていらっしゃるのではないでしょうか。

(ありがとうございました。)

(平成二十四年十一月十五日、よいや舞台にお訪ねしインタビューをさせて頂きました。

 萬斎さんには、ご著書に『萬斎でござる』『MANSAI◎解体新書』(朝日新聞社)等があり、平成二十五年一月には、著書『狂言サイボーグ』が新たに文庫版として発売となると伺いました。)

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