修行と修業の意味や違いは何か?

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2019.07.22

修行と修業の意味や違いは何か?

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修行と修業

修行
仏道を身につけたり、武芸や芸能を身につけたりするために努力すること

修業
技術を習い、身につけること

「しゅぎょう」と言えば、漢字でどう書くかは、おおかた次のふたつになります。

・修業

・修行

ちなみに、手元の辞書広辞苑第五版によれば、

修行
1)[仏]i) 悟りを求めて仏の教えを実践すること。ii) 托鉢をして巡礼すること。
2)精神をきたえ、学問・技芸などを修めみがくこと。また、そのために諸国をめぐること。「武者〜」

・・・

修業
学問・技芸などを習いおさめること。しゅうぎょう。「板前の〜」「花嫁の〜」

・・・

ですが、ここ身曾岐神社で行われている「しゅぎょう」は、

・修行

と書き表しています。

このページでは、なぜこの表記にしているのか、この意味するところ、すなわち、

・なぜ修業と書かずに修行としているのか

・修行と修業の違い

・修行と修業はどのようなかかわりがあるのか

について、まとめます。

行と業

まず、「ぎょう」ということについてです。

行と書けば、これは、行い・行為です。

かたや、業と書くと、

技術とか、スキルとか、そのようなもの。

「修業に行く」と言えば、技術を習得しに行くというような意味ですね。

なお、この「業」という字は、「わざ」とも読みます。

「かみわざ」は「神業」と書きます。

ところが、「業」という字は、もう一つ読み方があります。

なんだかわかりますか?

それは、「ごう」です。

たとえば、「業(ごう)が深い人」というような使われ方です。

ちなみに、「業(ごう)が深い」は「因縁が深い」とも表現されます。

人生は行いの連続

さて、私たちは、毎日何かを行っています。何も行わない日なんて、おそらくないですね。毎日何かを行って、その都度結果を得ています。

つまり人生は行いの連続であると言い表わすこともできます。

行い → 結果 → 行い → 結果 → …

ところで、あなたが何かを行うとき、常に問われていることがあります。

あなたは、そのことに気づいていますか?



それは、あなたのその行いが、神さまの御心に沿っているかどうかです。

大事なことなので、もう一度繰り返します。

あなたの行いが、神さまの御心に沿っているのかどうか。

徳とツミ

神さまの御心に沿う行いは、徳となります。

しかし、神さまの御心に沿わない行いは、ツミになります。

行いと心

行いは、心が形となって現れたものです。

よく見てみれば、あなたが何かを行うとき、実は心の中では既に行っています。

まづ心の中で行い、そして実際に行います。

この事を「ヒトは二度行う」とも言います。

イメージトレーニングは、
この作用を上手く利用しています。

心 → 行い

心は曲者

ところが、心というものは、曲者です。

なかなか言うことを聞いてくれない。

統御するのが難しい。

例えば、タバコを吸うことがカラダに悪いと知って、じゃあ明日から禁煙する!
と心で決める。

ところが、長続きするのは、なかなか。

ちょっとした誘惑があれば、すぐに元に戻ってしまいます。

もう絶対にやめると、一大決心しても、そううまくはいきません。

あなたも胸に手をあてて振り返ってみれば、一度や二度、そういった体験をお持ちではないでしょうか。

心は心で変えられない

つまり、ここから、

心は心で変えられない

ということが分かります。

この

心は心で変えられない。

また、

心は心で変わらない。

これらは、金言ですので、しっかりと肝に命じておきましょう!

一大決心をして、後は頑張れば、それでいい、何とかなる。

本当でしょうか?

物事は、そう甘くはありません。

実際、何とかなることも確かにありますが、何とも上手く行かないこともあります。

ひよっとしたら、何とも上手く行かないことの方が多いのではないでしょうか。

何でも心で太刀打ちできる。

それは、大きな勘違いです。

確かに、中には、心で太刀打ちできることもあるでしょう。

でも、心での太刀打ちには限りがある、ということも事実なんです。

そう甘くはないのです。

そのことに気づく必要があります。

じゃあ、どうすれば良いのか。

ありがたいことに、この日本という国は、とても長く続いている国です。

今年令和元年(西暦2019年)は、皇紀2679年。

国のはじまりから、少なくとも2679年経つわけです。

先ほど触れたことは、何も今、現代のことではありません。

心は心で変えられない。

それは、昔も今も変わらないことですね。

よって、
そういったことに、私たちの先人はどのように向き合ってきたのか。

その答えが、このみち、すなわち、かむながらのみちに残されているのです。

心を変えるには

心は心で変えられないのであれば、何で変えられるのか?

その答えは、

行(ぎょう)

です。

行(ぎょう)も行いには違いありません。

しかし、行は、誰でもできることです。行うことにおいて、難しいことはありません。

もし難しいことがあるとすれば、それは、毎日続けることにあるでしょうか。

ここに、修行の意味があります。

行(ぎょう)を積んでいくと、知らず知らずのうちに心が変わっていきます。

ひと言で言えば、

清まっていく

きれいになっていく

澄んでいく

のです。

そのようにして、心が変われば、自然と行いが変わります。

つまり、

行 → 心 → 行い

というぐあいに、なかなかどうにもならない心を行で制するのです。

結果、その後に続く行いをも制することになります。

行 → 心 → 行い → 結果

これを問題解決における別なアプローチ、しかも、極めて日本的なアプローチと見ることもできます。

おまけに、このアプローチは、対症療法ではありません。根本療法です。

行で業(ごう)を修める

また、別な言い方をすれば、行を修めることによって、業(ごう)を修めるのです。

業(ごう)とは、仏教の方の言葉ですが、意味は、なんと!

行い・行為

です。

行いとその後に続く影響まで含めて、使われる言葉です。

善業善果・悪業悪果

という言葉もありますね。

善い行いは、善い結果を生じ、
悪い行いは、悪い結果に至る。

当たり前と言えば当たり前のことです。

しかし、善い行いを心掛けていても、なかなか上手く行かない。

それは、心があるからです。

心は心で統御できないからです。

なので、心の次元で思うことも

意業(いごう)

と言って、業(ごう)のひとつ。

業(ごう)は、

身(しん)・口(く)・意(い)

の三業、

つまり、

あなたが、

からだを使って行うことや

どんな言葉を発するかや

心の次元で思うこと

です。

これらの元は、目には見えないところにあるので、その見えないところを整えるために、行(ぎょう)をするのです。

ただし、ただ 行(ぎょう)をするのではありません。

神さまに関わっていただいて、行(ぎょう)をします。神さまと関わりを持ちながら、行(ぎょう)をします。

身曾岐神社での行(ぎょう)は、何かを身につけるために行うのではありません。

修行をすれば霊的な能力が身につくと、よく勘違いしている方がいらっしゃいます。

気持ちは分かります。ですが、そのような力は誰もが持っているものです。もちろん、あなたにも宿っています。

なので、修行をすれば、新たに能力が身につくと言うより、本来宿っている力が発揮されると言う方がふさわしく、
あなたに役目があれば、清めてさえいけば、そういった力は顕現するものです。磨き出されるものです。

身曾岐神社での行(ぎょう)は、目に見えないところを整えるためにあります。

目に見えないところが整えば、やがて目に見えるところも整います。

行(ぎょう)をして、目に見えないところを整える。行を続ければ、その効果が積み重なって、自然と心が変わり(きれいになって)、行いが変わる。すると、生じる結果が違ってくる。

このやり方は、対症療法ではありません。

根本から組み立て直す根本療法です。

カゼをひいて熱が出た。喉が痛い。咳が出る。
鼻水が出る。症状を抑えるために薬を飲む。
そういった対症療法ではなく、
カゼをひきにくい身体を作る。カゼをひいても、比較的すぐになおる身体を作る。
そのような根本療法です。

以上、修行について記しました。

・なぜ修業と書かずに修行としているのか

・修行と修業の違い

・修行と修業はどのようなかかわりがあるのか

身曾岐神社でお伝えしている行は、誰もができる簡単な行です。行なえば、行っただけのことがある行です。

あなたにお伝えする直ぐの機会(チャンス)があります。

チャンスの神さまは前髪だけ。

やり過ごすと二度とつかむことはできません。

現代的なものだけが有用であるとは限りません。古典的なもの、古くから伝えられて来たものの中に見るべきもの、採るべきものがあったりします。

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