

身曾岐神社 宮司 坂田安儀
われらの郷土日本においては脚下(きゃっか)の大地は一方においては深き慈愛をもってわれわれを保育する「母なる土地」であると同時に、またしばしば刑罰の鞭をふるってわれわれのとかく遊惰に流れやすい心を引き締める「厳父(げんぷ)」としての役割をも勤めるのである。厳父の厳と慈母の慈との配合よろしきを得た国がらにのみ人間の最高文化が発達する見込みがあるであろう。
『日本人の自然観』より
つまり、私たち日本人の住むこの大地、この自然は、慈愛ふかき母なる側面を持つとともに、厳しき父の役割をも持つ。ゆえに、この自然の母なる側面と父なる側面、この両面の「配合よろしき」を得ることが、国の発展につながるであろうと。
しかし――と寺田は続けます。人はいつしか、天災という厳しき面を忘れ、自然から恵みを得ることにのみ夢中になっている……これは、彼が昭和十年に書いた言葉ですが、まるで現代文明そのものの批判とも受け取ることができます。
また別のところで寺田は、次のようにも言っています。
鴨長明(かものちようめい)の方丈記(ほうじょうき)を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓(ごぞう)六腑(ろっぷ)にしみ渡っている。
日本のような地震や台風の多い土地に住む民族においては、いつ何どき自分たちの作り上げた文明が、大自然の猛威の前に一瞬にしてはかなくなってしまうかもしれない。
そういった無常観――いまの言葉にいいかえれば、非常時に対する心構えと言ってもいいかもしれません――が、遠い先祖からの遺伝的記憶となって、日本人の体のすみずみにまで、血肉となってしみ渡っているというのです。
一方、今回の大震災において、海外のメディアから、日本人の「秩序ある行動」が絶賛されたことは、まだ記憶に新しいと思います。
家も財産もみな失い、失意のどん底にありながら、避難所では暴動が起きることなく、みな整然と配給を受けるために並び、一つのパンにも「ありがとう」と感謝の言葉をもって受け取る姿に、海外から称賛の声が上がりました。
けれども、私たち日本人にとっては、このような非常時に「暴動」を起こすなどという発想そのものがありません。皆が苦しいのだから、皆でその苦しみ、悲しみを分かち合って、少ない食糧も感謝の心でいただく――
ここに、私たち日本人の「五臓六腑にしみ渡った」感性があるといえそうです。
○
幕末の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)が、日本人の「神」について、次のように言い表しました。
何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり。
つまり、日本の神とは、この大自然のあらゆるところに宿っていて、私たちに恵みをもたらす、すぐれたありがたい存在であるとともに、時にはおそろしく、人間が決して逆らうことのできない存在であるというのです。
先ほどの寺田のいった、自然に慈愛ふかき母なる側面と厳しき父の面を見る、その感性とまったく同じものです。
私たち日本人は、自然の中に、たとえば地震や津波のように、自分たちの知恵や才覚で築き上げてきたものを一瞬の間に破壊し去っていく、そのような厳しい側面を認め、それをも「神」として崇(あが)め、おそれ、尊んできました。
そして、その神を祀る場として、鎮守の杜(もり)を定め、人々が集まる村の中心におきました。それが「神社」です。
また、そのような神のおそろしき面と、一年の稔(みの)りに象徴されるような恵みの面、その両方のお働きを忘れぬよう定めたのが「祭り」という儀式です。
そのようにして、私たち日本人は、遠い昔から、神すなわち自然を、おそれ、敬い、尊ぶという感性を、生活の根本に据えてきたのです。
これが、すなわち「神道」という信仰なのです。
ところが、現代の日本人は、この神という存在を忘れ、自然の恵みに感謝し自然の力をおそれ敬うという感性を失い、自然をただの物として、そこから奪うだけの心性に成り下がってしまったように見受けられます。
自然をおそれ、自然を敬い、そして自然に従って生きていく。生活の根本に、この自然の尊厳というものを据えて、そこからすべての営みを生みだしていく。このような日本人の感性こそが、いま最も求められている気づきではないでしょうか。
また、この震災を人類的規模で見た場合、その気づきこそが、これから日本が世界へともたらすことのできるものであり、本来、日本人がこの世に存在する真の所以(ゆえん)であると、私は断言いたします。
と同時に、身近なところに思いをめぐらせば、慈愛ふかき母、厳しき父という、この基本的な家庭像が失われてしまったことが、今の日本人の有様を示していることと思います。
ここには、教育という問題があります。あるべき家庭の姿を描き直し、それを教育として取り戻すことも、日本人にとって緊急の課題でありましょう。
○
この身曾岐神社には、十種神宝御法(とくさかんだからごほう)という法が伝承されております。
これは神代から宮中に伝わる尊い行法で、その究極にめざすところは、いまお伝えしましたような、日本人が本来持っている感性を、みずからのうちに呼び覚ますものだといえます。
その行の場において、とても大切なものとしておりますのが、八つの方位、すなわち「八方(はっぽう)」というものです。これを「東(とう)西(ざい)南(なん)北(ぼく)雨(う)風(ふう)雷(らい)震(しん)」という言葉であらわしております。
これはあくまで行法のことで、みだりに口に出してあらわにする事柄ではありませんので、ごく簡単に申し上げますと、この八方をきちんと立てることによって、行をする者が、天地自然と一体となり、あらたな自己を確立していくのです。
すなわち、東西南北という方位に象徴される天地、その天地の運行により生ずる、雨、風、雷、震、すなわち地震や津波なども、すべて天地自然そのものであり、それは命そのものなのだと受けいれて、みずからの生きる力としていくのです。
つまり、先ほどから申し上げております、自然の恵みの面と厳しさの面、母の面と父の面、この両面があって、はじめて完成された天地自然そのものなのだと受け入れて、生きていこうという感性に目覚めていくのが、この十種という行法なのです。
そのような感性にめざめますと、たとえ災害においても動ずることのない人格が生まれてくる。しかし、それは特別な能力などというものではなく、すべての日本人の「五臓六腑にしみ渡っている」ものであり、それが時に、あの被災者の方々が見せたようなあらわれ方をするのです。
日本人は、ある意味、災害とともに生きてきた民族であり、そこから無常観のような、自然すべてを受け入れていく心持ち、感性が生まれてきたのでありましょう。
しかし、受け入れるということは、同時に、そこから新しい生き方を生み出すということです。そこから、真の復興も生まれてくるのです。
自然の恵みと同時に、厳しさという面をおそれ、崇める心があれば、それに見合った都市作りもされましょう。備えもされましょう。
かしこきものを神と申し上げ、崇め、尊び、それと共に生きようとする、まさに天地自然とともにいきる生き方の復興こそが、これからの日本を真に強くし、不動の文化・文明というものを創り上げていく基盤となることと思います。
○
いま「祈る」ということについて、皆さまの意識がとても高まっているように感じております。
この祈りについても、私から皆さまにお伝えしたいことがございます。まことにおそれ多いことではございますが、天皇陛下の御事です。
皆さまもご承知のように、陛下は大震災の直後、被災者や国民にむけたビデオメッセージを発表されました。そこには「深く心を痛めています」「切に願っています」「これからの苦難の日々を、私たち皆が分かち合っていく」と、まさに祈りの心そのものの御言葉がございました。
また、天皇皇后両陛下をはじめ御皇族の方々が、避難所や被災地をまわられ、一人ひとりへと御言葉をかけられ、御気持ちを寄せておられました。そのことによって国民が、どれだけ勇気づけられ、癒され、生きる希望をいただけたのかは、はかりしれません。
陛下御自身が、御言葉を発し、また被災地の中にその御身をおかれることによって、自然に平安がそこにおとずれたのです。
それこそが、まさに日本の王としての御力、私なりの言い方で申し上げますと「祈りの王」としての御力、御徳、エネルギーというものが見事に発揮された、まことに尊い御姿であると、私は深い感銘をもって受けとめさせていただきました。
このような陛下の祈りの御心にならい、その御徳を皆が分かち合えるために、ご尽力されたのが、実にこの身曾岐神社の御祭神であります井上正鐵(いのうえまさかね)神なのです。
正鐵神は、幕末の激動の時代を生きられた神道家であり、同時に医者でもあったお方です。御祭神は、何とか信仰の力によって人々を救いたいと、さまざまな行を積み、十種神宝御法と出会いました。
そして、この日本の国が今日まで続いてこられたのは、天皇が核として存在し続けてきたからで、その天皇を天皇たらしめたのが十種神宝御法という法であることに気づき、それまで宮中に秘められたこの御法を、あまねく大衆へと広めることを決意され、実行されたのです。
国民の皆が天皇の如く、そのお徳の万分の一でもよいから分けいただける、そのような道があるのだということから、正鐵神の宗教家としての活動がはじまりました。そしてその御精神と御法をしっかりと伝承しておりますのが、この身曾岐神社なのです。
まことに陛下の祈りの御心とは、先ほどから私が申し上げております、天地自然、すべての命の本質に気づく心であります。
天地自然そのままが、すでに完成された命の姿であり、すべての命はつながっていることへの気づき――その天地自然を教典とする命の信仰が、すなわち神道なのであります。
ゆえに、正しき祈りこそが、この命の本質に目覚め、気づかせるのです。
そしてそこからおのずと、これからの新しき国作りのビジョンというものも、しっかりと示されていくでありましょう。
○
私が、この身曾岐神社を建てました理念の中には、この神域にたたずみ、そこで深呼吸ひとつすれば、命の尊厳さがおのずからそれぞれの心に湧いてくるような、そのような神社を建てたいという思いがあり、この身曾岐神社のたたずまいを整えさせていただきました。
ですから、この神域の中で、そっと目をつぶり、深呼吸ひとつすれば、それが祈りとなり、神社を核とした自然の本質へとつながるわけです。
そもそも日本語の「自然」は、ただの環境を意味するのではなく、いわば命の完成形とでもいうべき理想の姿をあらわしている言葉です。
それは天地だけではなく、植物、動物、人間をふくむすべての命の完成形であり、悟りきった理想的な生き方であり姿、まさに「自然体」なのです。
ですから、その自然の中には、当然、地震、雷、台風などの災害もあることでしょう。それもすべて命の中において、みなつながりを持つという感性です。であるからこそ、地震が来ても動じない。それも命の、自然のはたらきだと悟ることのできる――これが日本人の究極の生き方であり、人生観の根底にある考え方なのです。
このような日本人の本来の自然観、生き方、信仰の心をとりもどし、いまこの混迷とした時代に、しっかりと、人々の心の礎としての法と教えを守り、伝承し、そして世の中へと発信していくことが、この身曾岐神社の使命であります。
また、そのような場であるからこそ、たとえ深呼吸一つしただけでも、日本人がつかみ取った真実を、どのような理論、教義も超えて、一人ひとりが体感することができるのであります。
こころみに、ご本殿の前にたたずみ、手を合わせ――手のひらというのは、特に命のエネルギーが集まり、その波動が発せられるところですから、それをしっかりと合わせ、そして御神言(ごしんごん)であります
「とほかみえみため」
を、たとえ心の中でもよいです、あるいは声に出して、お唱えされてみてください。
この「とほかみえみため」という御神言は、十種神宝御法の基本の祈りであり、いままで私が申し上げてまいりました、日本人が先祖から培ってきた心、日本人一人ひとりの五臓六腑にしみ渡っております命の感性を呼び覚まし、天地自然の深奥へと直接つながっていく尊い言葉、まさに言霊(ことだま)であります。
その言霊とともに、このたび亡くなられた犠牲者の方々の御冥福を一心に祈る、また原子力発電所の問題の収束を祈る、あるいは広くこの世の平和そのものを祈られてもよいでしょう。それぞれに、しっかりと念じていただきたい。
そのような皆さまの祈りの力が一つになれば、それは天に通じ、必ずや「不思議」を起こす、すなわち現実を動かす力となるのです。
それは、まさに陛下の御心――その御言葉や御姿勢に伺いしることのできます「祈る心」です。その御心が、人々に自然と癒やしや力を与え、この現実を正しき方向へ、すべての命がいかされていく方へと、導くことがかなうのです。
この祈りの心こそが、まさに日本の復興の根源になくてはなりません。
私は、この神域を預かる者として、そして天地自然を教典とする命の信仰をお伝えする者として、日本未曾有の危機といわれているこの時にこそ、戦後の日本が物質的発展の中で作ってきた大いなるゆがみを正し、真の日本を復興する祈りを、日々、ここ身曾岐神社において捧げ、またその心と行法をお伝えしております。
どうか皆さま方におかれましても、この御神域におきまして、あるいはそれぞれの御家庭におきまして、この日本が真に世界平和へと貢献できる国へと復興されますよう、祈りをともにしていただきたく、切に願っております。
(平成23年5月2日 宮司談話)
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