初学へのいざない
みそぎ  
すべてのいのちには、自分自身の生を、楽しく、明るく、朗らかに生きていくことができる力が、本来そなわっています。
しかしそれまで生きてきた長い長い過程の中で、自らのいのちの力を束縛してしまうもの、自分自身の人生を生きにくくしてしまうもの、本来の輝きを曇らせてしまうものが深く根付いてしまっているのです。それを神道では「けがれ」と言っています。
 
この「けがれ」を「みそぐ」ことによって、私たちのいのちは本来の輝きを取り戻し、その結果、健康で、明るく、喜びに満ちた人生を手に入れることができます。初学修行座とは、この神道の基本的な教えを自分自身の体で実践、体得し、日常の生活に戻っても続けていくことができるよう、お伝えするものです。
息  
神道の世界では、息こそ生きるものの「いのち」であると考えています。人の一生は、産声をあげて始まり、息を引き取って終わるというように、息こそがその人の生命エネルギーそのものと見るのです。
この初学修行座では、古来より宮中に伝わる伯家神道の呼吸法を学ぶことによって、いのちの力を強め、すこやかで喜びに満ちた人生、文字通り「長生き(息)」ができる人生
 
へとみなさまを誘います。武術、芸能、礼儀作法など、あらゆる日本の「道」の基本は呼吸法にあります。へその下に気を集め、自らの生命力を充実させていく、それが伯家神道に伝わる息吹永世(いぶきながよ)という呼吸法です。
また「とほかみえみため」という御神言を力のかぎり唱え続けることによって、自分の中の邪気を吐き切り、天地自然のリズムに同化していく言霊(ことだま)祓いの行、ヨーガの元となった天津息吹(あまついぶき)など、熟練した神職の指導によって、自らのいのちの力の目覚めが促されます。
山と木々に囲まれた大自然の中で、天地の気を身体のすみずみまで、くまなくめぐらせることによって、天地の息吹と同化し、日常の生活において体の奥底までたまり切った「けがれ」が祓われていくことでしょう。
食  
優れた医者でもあった御祭神・井上正鐵翁のお言葉に「食によって体ができ、食べ方によって運命が定まる。食は生命を養う源にして、人間一生の吉凶がことごとく食より起こる。恐るべきは食なり、慎むべきは食なり」というものがあります。
現代生活において、ともすれば偏食・栄養過多になりがちな食事。この初学においては、あえて一汁一菜という食生活を続けることに
 
よって、普段の食生活では噛みしめ得なかった一粒の米、一滴の汁の味を知ると共に、疲れた胃を休め、身体本来が持つ機能の回復が得られます。
また、食事の作法、掃除、座り方からおじぎにいたるまで、あらゆる日常生活の見直しと、すべてに美を重んじた日本人本来の感性を、神職の指導のもとに養っていきます。
自然  
私たち日本人は、自然に逆らわず、年ごとの実りに感謝し、時にはおそれを感じながら、自然と共に歩み、生きてきました。また私たち日本人は、物みなすべてにいのちがあると感じてきました。木々や草花、虫や動物、山や川、あるいは身近な道具にさえ、いのちの存在を感じ、一つの物も粗末に扱わず、大切にしてきたのです。
神道とは、自然を教典としたいのちの信仰で
 
す。自然を物と見て搾取するだけの近代文明は、すでに限界を迎えました。ここ八ヶ岳の南麓、日常のストレスから解放され、大自然の息吹を感じながら、自らのいのちに息づく本来のリズムを取り戻してみませんか? 神道が目指すものは、そのような究極の「自然体」なのです。
いのち  
私という存在を一本の木にたとえるならば、親先祖はその根です。私という一本の木が青々とした葉を茂らせ、見事な花を咲かせることができるのも、地中の奥深くまで伸びた根がしっかりと養分を、すなわち私の親先祖が、私という木の隅々にまで、命という尊い力を行き渡らせてくれているからです。
この初学修行座では、私たちの命の根源とも言うべき、ご先祖様への鎮魂法を学びます。
 
もともと先祖供養は仏教ではなく神道であり、私たち日本人が命を尊び、血の流れを大切にしてきた、その本来のやり方「九族鎮魂法」を実践していただくことによって、みなさま方は大いなる先祖からの余徳をいただけることと思います。また先祖への感謝、神への感謝、そして命への感謝の心に目覚めることこそ、実は究極の「みそぎ」なのです。