修行と修業の意味や違いは何か?

修行と修業

修業
技術を習い、身につけること

修行
仏道を身につけたり、武芸や芸能を身につけたりするために努力すること

「しゅぎょう」と言えば、漢字でどう書くかは、おおかた次のふたつになります。

・修業

・修行

ちなみに、手元の辞書広辞苑第五版によれば、

修行
1)[仏]i) 悟りを求めて仏の教えを実践すること。ii) 托鉢をして巡礼すること。
2)精神をきたえ、学問・技芸などを修めみがくこと。また、そのために諸国をめぐること。「武者〜」

・・・

修業
学問・技芸などを習いおさめること。しゅうぎょう。「板前の〜」「花嫁の〜」

・・・

ですが、ここ身曾岐神社で行われている「しゅぎょう」は、

・修行

と書き表しています。

このページでは、なぜこの表記にしているのか、この意味するところ、すなわち、

・なぜ修業と書かずに修行としているのか

・修行と修業の違い

・修行と修業はどのようなかかわりがあるのか

について、まとめます。

行と業

まず、「ぎょう」ということについてです。

と書けば、これは、行い・行為です。

かたや、と書くと、

技術とか、スキルとか、そのようなもの。

「修業に行く」と言えば、技術を習得しに行くというような意味ですね。

なお、この「業」という字は、「わざ」とも読みます。

「かみわざ」は「神業」と書きます。

ところが、「業」という字は、もう一つ読み方があります。

なんだかわかりますか?

それは、「ごう」です。

たとえば、「業(ごう)が深い人」というような使われ方です。

ちなみに、「業(ごう)が深い」は「因縁が深い」とも表現されます。

行い

さて、私たちは、毎日何かを行っています。何も行わない日なんて、おそらくないですね。毎日何かを行って、その都度結果を得ています。

つまり人生は行いの連続であると言い表わすこともできます。

行い → 結果 → 行い → 結果 → …

ところで、あなたが何かを行うとき、何に気をつけていますか。

いかがでしょうか?



それは、あなたのその行いが、神さまの御心に沿っているかどうかです。

大事なことなので、もう一度繰り返します。

あなたの行いが、神さまの御心に沿っているのかどうか

行いの区分

つまり、行いは、二つに分かれるということです。

  • 神さまの御心に沿う行い と
  • 神さまの御心に沿わない行い

「神さまの御心に沿わない行い」を「ツミ」と呼びます。

他方、「神さまの御心に沿う行い」には 名前 がありませんご、こちらは、積み重ねていくと、やがて「徳」と呼ばれるものになっていきます。「徳」は、唯一子孫に遺すことができるものです。

一方、呼ばれます。

知らず知らずのうちに、人間は、ツミを重ねている存在であるというわけです。

行いと心

心が形となって現れたものが、「行い」です。

よく見てみれば、あなたが何かを行うとき、実は心の中では既に行っています。

まづ心の中で行い、そして実際に行います。

この事を「ヒトは二度行う」とも言います。

イメージトレーニングは、この作用を上手く利用しています。

心 → 行い

心は曲者

ところが、心というものは、曲者です。

なかなか言うことを聞いてくれない。

統御するのが難しい。

例えば、タバコを吸うことがカラダに悪いと知って、じゃあ明日から禁煙する!
と心で決める。

ところが、長続きしない。なかなか難しい。

ちょっとした誘惑があれば、すぐに元に戻ってしまいます。

もう絶対にやめると、一大決心しても、そううまくはいきません。

あなたも胸に手をあてて振り返ってみれば、一度や二度、そういった体験をお持ちではないでしょうか。

心は心で変えられない

つまり、ここから、

心は心で変えられない

ということが分かります。

この「心は心で変えられない。」、また、「心は心で変わらない。」

これらは、金言ですので、しっかりと肝に命じておきましょう!

一大決心をして、後は頑張れば、それでいい、何とかなる。

本当でしょうか?

物事は、そう甘くはありません。

実際、何とかなることも確かにありますが、何とも上手く行かないこともあります。

ひよっとしたら、何とも上手く行かないことの方が多いのではないでしょうか。

何でも心で太刀打ちできる。

それは、大きな勘違いです。

確かに、中には、心で太刀打ちできることもあるでしょう。

でも、心での太刀打ちには限りがある、ということも事実なんです。

現実、実際は、そう甘くはないのです。

そのことに気づく必要があります。

じゃあ、どうすれば良いのか。

ありがたいことに、この日本という国は、とても長く続いている国です。

本年令和6年(西暦2024年)は、皇紀2684年。

国のはじまりから、少なくとも2684年経つわけです。

先ほど触れたことは、何も今、現代のことではありません。

心は心で変えられない。

それは、昔も今も変わらないことですね。

よって、

そういったことに、私たちの先人はどのように向き合ってきたのか。

その答え(=対処法)が、このみち、すなわち、かむながらのみちに残されているのです。

心の統御

心は心で変えられないのであれば、何で変えられるのか?

その答えは、

「行(ぎょう)」

にあります。

「行(ぎょう)」も「行い」には違いありませんが、しかし、「行」は、誰でもできることです。なぜなら、行うことにおいて難しければ、それは「行」にはならないからです。

※もし難しいことがあるとすれば、それは、毎日続けることでしょうか。

ここに、修行の意味があります。

行(ぎょう)を積んでいくと、知らず知らずのうちに心が変わっていきます。

ひと言で言えば、

  • 清まっていく
  • きれいになっていく
  • 澄んでいく
  • みがかれていく

のです。

そのようにして、心が変われば、自然と行いが変わります。

つまり、

行 → 心 → 行い

というぐあいに、なかなかどうにもならない心をで制するのです。

結果、その後に続く行いをも制することになります。

行 → 心 → 行い → 結果

これを問題解決における別なアプローチ、しかも、極めて日本的なアプローチと見ることもできます。

おまけに、このアプローチは、根本療法です。対症療法ではありません。

業(ごう)を修めるために

また、別な言い方をすれば、行(ぎょう)を修めることによって、業(ごう)を修めるのです。

毒を以て毒を制す という言葉とよく似ています。

業(ごう)とは、仏教でよく使われる言葉ですが、意味は、

「行い・行為」

です。

行いとその後に続く影響まで含めて、使われる言葉です。

善業善果・悪業悪果

という言葉もありますね。

善い行いは、善い結果を生じ、
悪い行いは、悪い結果に至る。

当たり前と言えば当たり前のことです。

しかし、善い行いを心掛けていても、なかなか上手く行かない。

それは、心があるからです。先ほど見たように、心は心で統御できないからです。

なので、心の次元で思うことも

意業(いごう)

と言って、業(ごう)のひとつ。

業(ごう)は、

  • 身(しん)
  • 口(く)
  • 意(い)

の三業、

つまり、

あなたが、

  • からだを使って行うことや
  • どのような言葉を発するかや
  • 心の次元でどのようなことを思っているか

です。

これらの元は、目には見えないところにあるので、その見えないところを整えるために、行(ぎょう)をするのです。

ただ 行(ぎょう)をするのではありません。

神さまと関わりを持ちながら、行(ぎょう)をします。

身曾岐神社でお伝えしている行(ぎょう)は、何かを身につけるために行うのではありません。

修行をすれば霊的な能力が身につくと、よく勘違いしている方がいらっしゃいます。

霊的な能力を身につけたい。気持ちは分かります。ですが、そのような力は誰もが持っているものです。もちろん、あなたにも宿っています。

なので、修行をすれば、新たに能力が身につくと言うより、本来宿っている力が発揮されると言う方がふさわしく、あなたに役目があれば、清めてさえいけば、そういった力は顕現するものです。磨き出されるものです。

身曾岐神社での行(ぎょう)は、目に見えないところを整えるためにあります。

目に見えないところが整えば、やがて目に見えるところも整います

行(ぎょう)をして、目に見えないところを整える。行を続ければ、その効果が積み重なって、自然と心が変わり(きれいになって)、行いが変わる。すると、生じる結果が違ってくる。

根本から組み立て直す根本療法です。対症療法ではありません。

カゼをひいて熱が出た。喉が痛い。咳が出る。鼻水が出る。症状を抑えるために薬を飲む。

そういった対症療法ではなく、カゼをひきにくい身体を作る。カゼをひいても、比較的すぐになおる身体を作る。そのような根本療法です。

以上、修行について、次の観点から記しました。

・なぜ修業と書かずに修行としているのか

・修行と修業の違い

・修行と修業はどのようなかかわりがあるのか

お役に立ったなら幸いです。

心と身体を整える みそぎ修行

身曾岐神社でお伝えしている行は、普段の生活の中で誰もが取り組むことができる簡単な行です。そして、行なえば、行っただけのことがある行です。

誰にとっても大事で効果的な それらの行 を、あなたにお伝えする直ぐの機会(チャンス)があります。

「チャンスの神さまは前髪しかない」という非常に有名なことばがあります。

やり過ごすと二度とつかむことはできません。

現代的なものだけが有用であるとは限りません。古典的なもの、古くから伝えられて来たものの中に見るべきもの、採るべきものがあったりします。

時代を超えて今に生きている

のは、凄いことです。

身曾岐神社が伝える古神道にはそれらが息づいています。

次の、心(こころ)と身体(からだ)を整える身曾岐神社のみそぎ修行 をご一読ください。あなたのお申込みをお待ちしています。