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初詣参拝者数は山梨一
神社は数多くあっても山梨県北杜市小淵沢に鎮座する身曾岐神社は別格です。
ここ身曾岐神社は、今や、お正月初詣の参拝者数は、山梨県下でいちばんです。平成30年のお正月は、約15万人で、3年連続で山梨県下では最多となっています。
八ヶ岳の南麓、緑豊かな自然の中にあって、天照大神を祀る身曾岐神社。
御本殿は、世界で最も美しい建造物の構造のひとつでもある唯一神明造り。伊勢神宮の御正殿と同じ造りです。
境内神域は、整備が行き届き、とても清々しく、そこに身を置くだけでも清められるようなところです。
日本随一の能楽殿
加えて、身曾岐神社には、日本随一とも評される能楽殿があります。
平成29年の6月には、auの三太郎シリーズのCMのロケ地として使われたので、もしかしたら、あなたもご存じなのではないでしょうか。
この能楽殿は、本格的な造りで、池の上に鳳凰が羽を広げてたたずんでいると形容されます。能楽師の方からも、このようなお舞台は他にはないとのこと。
この「池の上にある能舞台」、実は、大変な意味があります。
お能って、いったいいつの時代のものですか?
観阿弥・世阿弥がこの世に現れ出たのは、室町時代。今から約650年前のことです。
その時代に、電気ってありましたか?
ないですね。
そうです。今から650年前、室町時代には、現代にあるような照明の設備や音響の設備はありませんでした。水面は、光も音も反射します。したがって、水面に光が差すことで舞台が明るくなり、水面で音が反射することで遠くまで声・音が明瞭に伝わります。
本来、能舞台は、能を演ずるための場で、能楽師の方にとっては、神聖な場。土足などもっての他という場ですが、身曾岐神社では、能舞台を新しき人生の門出の晴れの舞台として、能舞台結婚式と称して、お使いいただけるようにしております。
日本広しと言えども、能舞台で挙式できるところは他に見当たりません。あったとしてもこれほどのたたずまいを備えるところはないでしょう。
すべてがひとつになる体験
能舞台は屋根こそあるものの、ご覧になる方は、池をはさんで対面するかたち、芝生の上です。
自然の中で行うということは、まわりの自然、すなわち、池で錦鯉が飛び跳ねることも、カラスがカーカーと鳴くことも、小鳥のさえずりやセミの鳴き声も、すべてが演出です。
実は、毎夏執り行う八ヶ岳薪能を観ながら不思議に感じていたことを、思い切って、能楽師の方に質問したことがあります。
「ときどき能の奉演中に、池で鯉がポチャッと跳ねたり、セミが鳴いたりしていますが、間の悪さを感じることはありません。すべてがひとつになっているという感じを受けるのですが、これはどういうわけなのでしょうか。」と。
すると、
「そうなんです。そのように感じられる感性はすばらしいです。実は、舞台の上で行われていることだけではないんです。まわりもすべてがお能。なので、まわりで起きていることはひとつの演出なのです。」
と応えられたのです。
能舞台こそ屋根がありますが、屋外の小劇場です。なので、お天気のことがいつも気になるところです。晴天に恵まれることを祈りますが、好天に恵まれるには日頃余程の精進を重ねていなければ叶う由(よし)はありません。
ですが、雨が降ることも、神さまのお恵みであり、その場その時の演出なのです。
であるならば、1回1回が感謝(おかげさま)であり、二度とない貴い出来事であるということです。
先の能楽師の方も
「「一期一会」という言葉があります。今日が限りの方もおられるでしょう。それでもこうやって会えたということは、そこに何かのご縁があるからです。神さまは常にご覧になっています。常に最高のものを捧げる。そのような覚悟でやっています。」
とおっしゃっていました。
身曾岐神社での能舞台での挙式、お天気のことも含めて、無事齋了となるまで、気が気でありませんが、ドキドキはらはらながらも、1回1回がかけがえのない式です。
清緑の自然に囲まれた中にある身曾岐神社だからこそ味わえる和の結婚式です。
神橋を渡るーふたりがひとつにむすばれて
身曾岐神社の能舞台での挙式は、まづ御本殿で神さまにごあいさつをするところから始まります。これから結婚式を執り行う旨を神さまに告げ奉る(申し上げる)のです。
そして、神橋を渡って能舞台に向かいます。
橋は、端と端をつなぐもの。あちらとこちらをつなぐもの。
身曾岐神社のつくりとして、あの世とこの世の二つの世界が池を隔ててあるとみたてられているのです。能楽殿のある池の向こう側が、神さまやご先祖さまがいらっしゃる世界、そして、池のこちら側がこの世の世界。神橋は、神さまご先祖さまがいらっしゃる世界(あの世)と私たち人間が住んでいるこの世界(この世)をつなぐ架け橋です。
神橋を渡って能舞台に進み、能舞台の上で神事を執り行って、再び神橋を渡って戻ってくるということは、とても意味深いことなのです。
行きは、ふたり。でも、帰りは、ひとつ。なぜなら、ふたりが能舞台の上でひとつにむすばれて、戻ってくるからです。
神橋には、真っ直ぐに赤い毛氈が敷かれ、新郎新婦は、神職に導かれ、橋を渡って進みます。
参列の方々は、芝生の上から、神橋を渡るお二人の姿をそっと見守る。微笑ましい光景です。
神橋の上を歩いてゆく姿は、絵になります。先導の神職、新郎、新婦、巫女。等間隔に並ぶ姿は美しい。父や母、友人には、どのように見えているのかな。きちんと、間隔はとれているのだろうか。向かいの玄関はすぐそこに見えているけど、その距離が何倍にも感じられます。時の歩みが変わったかのように。
鏡の間で威を正す
神橋を渡って、玄関を入り、回廊を通ると、能舞台の手前に、鏡の間があります。
鏡の間は、文字どおりの場所。全身を映すとても大きな鏡が設えられています。お能であれば、演者は、能舞台に上がる前に、その鏡の前で、鏡に向かって、姿形だけでなく、心身ともに整えます。自らのみたまを鎮めて、衣装をまとい、面(おもて)(能面のことです)を掛けます。そして、幕が上がるのを待ちます。
能舞台での挙式であれば、さあこれから幕が上がるという、あらためて身を引き締める場面です。
むすばれるからこそ生まれる
幕が上がって、能舞台へと進みます。参列の方々の注目を一身に浴びながら橋掛かりを進み、能舞台の上の定位置につきます。
能舞台で執り行われる神事は、身曾岐神社ならではのものです。
特に、次は他に類がありません。
・夫婦結杯の儀(めおとゆいはいのぎ)-お二人が盃を酌み交わし夫婦の縁を結びます
・契輪の儀(けいりんのぎ)-夫婦となる縁を指輪に証し終生共に歩むことを契ります
・玉串奉奠(たまぐしほうてん)-手に玉串を持ち、御柱を廻ってのち玉串を捧げる
参列の方々は、池の向こう側からお二人の様子を見守ります。
舞台の上、参列の方々、まわりの自然、鳥のさえずり、木の葉のさざめき、池の鯉が跳ねる様、すべてが一体、ひとつになって進んで行きます。
ひとつにむすばれると、やがて、新しきものが生まれます。
すなわち、新しきものを生むためには、「むすぶ・むすばれる」ということが大事で、これなくしては、新しき展開は決してないのです。
新しきいのちの誕生、新しき家庭の創造育成発展、それらは、このむすびの先にあることです。むすばれてこそ生まれるのです。
そして、むすびの神のおはたらきがあるからこそむすばれるのです。
神橋を二人で渡って、能舞台に進み、むすびの神事をいただいて、むすばれた二人が今度は一つになって、神橋を渡って、この世に再び戻ってくる。そして、新しい生活が始まる。
とても荘厳な出来事です。
申し分ないおもてなしに
光臨館は、身曾岐神社の迎賓館です。御皇室の方がお出ましになってもお迎えがかなうようにとの想いからつくられました。とても素敵に、また機能的につくられています。
新郎新婦のお支度、ご親族さまのお控え、ご友人方のお待ち合わせなどにお使いいただくことができます。和室(8畳)が二間、大広間(50畳)が一間(あいだを仕切って二間にすることも可)が利用可能です。
結婚式に先立っては、光臨館の応接間において、新郎新婦さまとご親族の方に、式のながれをご説明し、ご両家の皆さま立ち会いの下に、新郎新婦が誓詞(ちかいのことば)に署名します。この誓詞は、能楽殿の舞台の上で、おふたりが神さまに向かって申し上げる誓いのことばです。
山梨県下で和婚・神前結婚式の適うところの中でも、身曾岐神社の能舞台での神前結婚式は群を抜いて秀でているのです。
気軽にお問い合わせください。
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初詣参拝者数は山梨一
神社は数多くあっても山梨県北杜市小淵沢に鎮座する身曾岐神社は別格です。
ここ身曾岐神社は、今や、お正月初詣の参拝者数は、山梨県下でいちばんです。平成30年のお正月は、約15万人で、3年連続で山梨県下では最多となっています。
八ヶ岳の南麓、緑豊かな自然の中にあって、天照大神を祀る身曾岐神社。
御本殿は、世界で最も美しい建造物の構造のひとつでもある唯一神明造り。伊勢神宮の御正殿と同じ造りです。
境内神域は、整備が行き届き、とても清々しく、そこに身を置くだけでも清められるようなところです。
日本随一の能楽殿
加えて、身曾岐神社には、日本随一とも評される能楽殿があります。
平成29年の6月には、auの三太郎シリーズのCMのロケ地として使われたので、もしかしたら、あなたもご存じなのではないでしょうか。
この能楽殿は、本格的な造りで、池の上に鳳凰が羽を広げてたたずんでいると形容されます。能楽師の方からも、このようなお舞台は他にはないとのこと。
この「池の上にある能舞台」、実は、大変な意味があります。
お能って、いったいいつの時代のものですか?
観阿弥・世阿弥がこの世に現れ出たのは、室町時代。今から約650年前のことです。
その時代に、電気ってありましたか?
ないですね。
そうです。今から650年前、室町時代には、現代にあるような照明の設備や音響の設備はありませんでした。水面は、光も音も反射します。したがって、水面に光が差すことで舞台が明るくなり、水面で音が反射することで遠くまで声・音が明瞭に伝わります。
本来、能舞台は、能を演ずるための場で、能楽師の方にとっては、神聖な場。土足などもっての他という場ですが、身曾岐神社では、能舞台を新しき人生の門出の晴れの舞台として、能舞台結婚式と称して、お使いいただけるようにしております。
日本広しと言えども、能舞台で挙式できるところは他に見当たりません。あったとしてもこれほどのたたずまいを備えるところはないでしょう。
すべてがひとつになる体験
能舞台は屋根こそあるものの、ご覧になる方は、池をはさんで対面するかたち、芝生の上です。
自然の中で行うということは、まわりの自然、すなわち、池で錦鯉が飛び跳ねることも、カラスがカーカーと鳴くことも、小鳥のさえずりやセミの鳴き声も、すべてが演出です。
実は、毎夏執り行う八ヶ岳薪能を観ながら不思議に感じていたことを、思い切って、能楽師の方に質問したことがあります。
「ときどき能の奉演中に、池で鯉がポチャッと跳ねたり、セミが鳴いたりしていますが、間の悪さを感じることはありません。すべてがひとつになっているという感じを受けるのですが、これはどういうわけなのでしょうか。」と。
すると、
「そうなんです。そのように感じられる感性はすばらしいです。実は、舞台の上で行われていることだけではないんです。まわりもすべてがお能。なので、まわりで起きていることはひとつの演出なのです。」
と応えられたのです。
能舞台こそ屋根がありますが、屋外の小劇場です。なので、お天気のことがいつも気になるところです。晴天に恵まれることを祈りますが、好天に恵まれるには日頃余程の精進を重ねていなければ叶う由(よし)はありません。
ですが、雨が降ることも、神さまのお恵みであり、その場その時の演出なのです。
であるならば、1回1回が感謝(おかげさま)であり、二度とない貴い出来事であるということです。
先の能楽師の方も
「「一期一会」という言葉があります。今日が限りの方もおられるでしょう。それでもこうやって会えたということは、そこに何かのご縁があるからです。神さまは常にご覧になっています。常に最高のものを捧げる。そのような覚悟でやっています。」
とおっしゃっていました。
身曾岐神社での能舞台での挙式、お天気のことも含めて、無事齋了となるまで、気が気でありませんが、ドキドキはらはらながらも、1回1回がかけがえのない式です。
清緑の自然に囲まれた中にある身曾岐神社だからこそ味わえる和の結婚式です。
神橋を渡るーふたりがひとつにむすばれて
身曾岐神社の能舞台での挙式は、まづ御本殿で神さまにごあいさつをするところから始まります。これから結婚式を執り行う旨を神さまに告げ奉る(申し上げる)のです。
そして、神橋を渡って能舞台に向かいます。
橋は、端と端をつなぐもの。あちらとこちらをつなぐもの。
身曾岐神社のつくりとして、あの世とこの世の二つの世界が池を隔ててあるとみたてられているのです。能楽殿のある池の向こう側が、神さまやご先祖さまがいらっしゃる世界、そして、池のこちら側がこの世の世界。神橋は、神さまご先祖さまがいらっしゃる世界(あの世)と私たち人間が住んでいるこの世界(この世)をつなぐ架け橋です。
神橋を渡って能舞台に進み、能舞台の上で神事を執り行って、再び神橋を渡って戻ってくるということは、とても意味深いことなのです。
行きは、ふたり。でも、帰りは、ひとつ。なぜなら、ふたりが能舞台の上でひとつにむすばれて、戻ってくるからです。
神橋には、真っ直ぐに赤い毛氈が敷かれ、新郎新婦は、神職に導かれ、橋を渡って進みます。
参列の方々は、芝生の上から、神橋を渡るお二人の姿をそっと見守る。微笑ましい光景です。
神橋の上を歩いてゆく姿は、絵になります。先導の神職、新郎、新婦、巫女。等間隔に並ぶ姿は美しい。父や母、友人には、どのように見えているのかな。きちんと、間隔はとれているのだろうか。向かいの玄関はすぐそこに見えているけど、その距離が何倍にも感じられます。時の歩みが変わったかのように。
鏡の間で威を正す
神橋を渡って、玄関を入り、回廊を通ると、能舞台の手前に、鏡の間があります。
鏡の間は、文字どおりの場所。全身を映すとても大きな鏡が設えられています。お能であれば、演者は、能舞台に上がる前に、その鏡の前で、鏡に向かって、姿形だけでなく、心身ともに整えます。自らのみたまを鎮めて、衣装をまとい、面(おもて)(能面のことです)を掛けます。そして、幕が上がるのを待ちます。
能舞台での挙式であれば、さあこれから幕が上がるという、あらためて身を引き締める場面です。
むすばれるからこそ生まれる
幕が上がって、能舞台へと進みます。参列の方々の注目を一身に浴びながら橋掛かりを進み、能舞台の上の定位置につきます。
能舞台で執り行われる神事は、身曾岐神社ならではのものです。
特に、次は他に類がありません。
・夫婦結杯の儀(めおとゆいはいのぎ)-お二人が盃を酌み交わし夫婦の縁を結びます
・契輪の儀(けいりんのぎ)-夫婦となる縁を指輪に証し終生共に歩むことを契ります
・玉串奉奠(たまぐしほうてん)-手に玉串を持ち、御柱を廻ってのち玉串を捧げる
参列の方々は、池の向こう側からお二人の様子を見守ります。
舞台の上、参列の方々、まわりの自然、鳥のさえずり、木の葉のさざめき、池の鯉が跳ねる様、すべてが一体、ひとつになって進んで行きます。
ひとつにむすばれると、やがて、新しきものが生まれます。
すなわち、新しきものを生むためには、「むすぶ・むすばれる」ということが大事で、これなくしては、新しき展開は決してないのです。
新しきいのちの誕生、新しき家庭の創造育成発展、それらは、このむすびの先にあることです。むすばれてこそ生まれるのです。
そして、むすびの神のおはたらきがあるからこそむすばれるのです。
神橋を二人で渡って、能舞台に進み、むすびの神事をいただいて、むすばれた二人が今度は一つになって、神橋を渡って、この世に再び戻ってくる。そして、新しい生活が始まる。
とても荘厳な出来事です。
申し分ないおもてなしに
光臨館は、身曾岐神社の迎賓館です。御皇室の方がお出ましになってもお迎えがかなうようにとの想いからつくられました。とても素敵に、また機能的につくられています。
新郎新婦のお支度、ご親族さまのお控え、ご友人方のお待ち合わせなどにお使いいただくことができます。和室(8畳)が二間、大広間(50畳)が一間(あいだを仕切って二間にすることも可)が利用可能です。
結婚式に先立っては、光臨館の応接間において、新郎新婦さまとご親族の方に、式のながれをご説明し、ご両家の皆さま立ち会いの下に、新郎新婦が誓詞(ちかいのことば)に署名します。この誓詞は、能楽殿の舞台の上で、おふたりが神さまに向かって申し上げる誓いのことばです。
山梨県下で和婚・神前結婚式の適うところの中でも、身曾岐神社の能舞台での神前結婚式は群を抜いて秀でているのです。
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