古事記神代巻の伊邪那岐大神の禊祓の段では、
是を以ちて伊邪那岐大神詔りたまひしく、「吾はいなしこめしこめき穢き国に到りて在りけり。故、吾は御身の禊為む」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到り坐して、禊祓ひたまひき。
と記されています。
このことから、「禊ぎ」は、水により身を浄めることと、狭義には、定義されます。
したがって、多くの方が、海や川、滝など、水の在る所で、その水を浴びて、時には、かぶったり、打たれたりして、身を浄めることと理解されていると存じます。
伊邪那岐大神さまは、人生の半ばで奥様を亡くされるというとても悲しい出来事に見舞われ、そのことを乗り越える中で、あることに気づかれて、”みそぎ”をされたのです。
自分は黄泉の国=とてもとても汚い国に行って帰って来たので、どうも穢れて(穢れを付着させて)帰って来たみたいだ。
そこで、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到った所の川で、水にくぐられて、「禊ぎ」をされるのです。
「きれい」vs「きたない」
概念的には、「きたない」と言えば、その反対に「きれい」があります。
したがって、上の件(くだり)は、もう少し敷衍して言うなら、みそぎ(行為)を行い、きたない を きれい にした。結果、きれいになった。と捉えることができます。
これ故に、私たち日本人は、物事の善悪よりも、きれいかきたないかを重んじているわけです。
汚れたまま穢いまま人生を歩んでも、ひとつもいいことはないのです。
掃除に例えれば、汚い雑巾を持って拭いて歩いて回っているようなものです。なぜなら、自分自身が汚れているからです。
あなたが穢いままよごれていれば、係わる相手や仕事そのものがよごれていきます。世の中もどんどんよごれていきます。
つまり、人生は運ばない(うまくいかない)ことにつながります。
したがって、伊邪那岐大神さまの御事蹟を踏まえた上で、「禊ぎ」と表記せず、広義に捉え、「みそぎ」と表記し、
「みそぎ」とは、きれいになることです。
とお伝えしています。
祓い清める上で大切なこと
身曾岐神社で唱えている祝詞は、「禊祓祝詞」と申し上げます。
内容は、
高天の原に神留ります 神漏岐・神漏美命
以て 皇御祖神伊邪那岐命 筑紫の日向の
橘の小門の阿波岐原に 禊祓い給う時に
生れませる祓戸の大神達 諸々の禍事罪穢
を 祓い給い清め給えと白す事の由を
天津神・國津神・八百萬神達共に聞し食せ
と 恐み恐み白す
ですが、
大切な点が二つあります。
- 自ら行うこと
- 祓ったり清めたりしてくださるのは、神さま だ
伊邪那岐大神さまは、自分自身の現状に気づいて、これではダメだと悟られて、自ら「清めよう」という心を起こされ、みそぎをされました。
言い換えれば、みそぎした方がいいよと言われたから行うというのでは、みそぎの精神に反します。
また、「禊祓祝詞」に「祓い給い清め給うことの由を」とありますが、補助動詞「給う」を理解することが大事なところで、この「給う」という言葉が付くことによって、「祓ったり清めたりしてくださるのが神さまだ」ということを明確に表現しています。
決して「禊祓祝詞」を唱えるあなたが、祓ったり清めたりするのではないのです。
神さまと人との共同作業なのです。
あなたが「禊祓祝詞」を唱えれば、神さまはそのことをお聞き届けになって、祓い清めが神さまの手によって行われるのです。
祓いと清めは別なもの
それから、「罪穢れを祓い給い清め給えと」とあるように、
- ツミに対しては、祓い
- ケガレに対しては、清め
という対応関係があることに注意を払いましょう。
つまり、「祓い」と「清め」は、区別があるのです。
運ばれる人生に切り換えるために
以上のようなことの学びを深めて自分自身を整えていくために、当身曾岐神社では、「みそぎ修行」を2泊2日の日程で執り行っています。